ミネアポリス(Minneapolis)は、アメリカ合衆国ミネソタ州東部に位置する都市。ヘネピン郡の郡庁所在地で、州最大の都市である。人口は382,578人(2010年国勢調査)[1]。市はミネソタ川がミシシッピ川に合流する地点の北側に位置している。このミネアポリスと東に隣接する州都セントポールとをあわせてTwin Cities(双子の都市)とも呼ばれる。この「双子の都市」を中心にし、ブルーミントンなどを含むミネアポリス・セントポール都市圏は約330万人、さらにセントクラウドなどを含んだ広域都市圏は約360万人の人口を抱える(いずれも2010年国勢調査)[1]。
ミネアポリスの市名はダコタ族の言葉で「水」を意味するmniとギリシア語で「都市」を意味するpolisとを組み合わせてつけられた[2][3]。その名が示す通り市には水が豊富で、市域内に20の湖を持ち、ミシシッピ川や多数の小川が流れ、滝が形成されている。これらの水辺の多くは遊歩道で結ばれている。かつては世界の小麦製粉の中心地であり、また製材の中心地であった。そうした背景から、市はCity of Lakes(湖の街)、Mill City(製粉の街)という別名を持っている[4]。
今日では、ミネアポリスはアメリカ中西部の世界都市のひとつとして、地域経済の中心となっている。ミネアポリスには連邦準備銀行が置かれ、第9地区をカバーしている。また、ミネアポリスはシカゴとシアトルの間で最も重要なビジネス拠点である。ダウンタウンには大規模小売店チェーンのターゲットが、郊外には穀物メジャーのカーギルや大手電機小売のベスト・バイが本社を置いている。ノースウエスト航空のハブ空港であるミネアポリス・セントポール国際空港を玄関口に持ち、全米のみならず世界各地からの直行便が発着する、国際的な交通の要衝でもある。
また、ミネアポリスは音楽シーンにもその名を残した。1970年代から1980年代にかけて、プリンスをはじめとする地元出身のミュージシャンはミネアポリスサウンドと呼ばれる音楽を確立させ、世界に広めた。
1680年頃にヘネピン神父らを連れたフランス人の入植者がやってくるまで、この地にはネイティブ・アメリカンのスー族の一派、ダコタ族のみが住み着いていた。1819年、現在ミネアポリス・セントポール国際空港がある場所の近くにスネリング砦が建てられるとこの地域の発展が始まった。ダコタ族からの土地の購入が進み、この地に到着する入植者たちが住み着きやすくなっていった。1856年、ミネソタ準州の法律によりミシシッピ川西岸に形成されていたミネアポリスは正式な町になった。1867年には、ミネアポリスは市に昇格した。この年、ミネアポリスとシカゴを結ぶ鉄道が開通した。その5年後の1872年には、ミシシッピ川東岸の町セント・アンソニーがミネアポリスと合併した[5][6][7][8]。
ミネアポリスはミシシッピ川唯一の滝であるセント・アンソニー滝の周囲に発展した。もともと水力は紀元前1世紀から粉挽きに使われていた[9]が、とりわけ1880年から1930年にかけてのミネアポリスは、市がthe greatest direct-drive waterpower center the world has ever seen.(世界史上最大の直接水力の中心地)[10]と呼ばれ得るほどの特筆すべきものであった。また初期においては、ミネソタ州北部の森林地帯から材木を得て、滝の水力を利用した製材所で加工したことにより、製材業が発展した。1871年頃、ミシシッピ川の西岸には製粉、綿織物、毛織物、製鉄、鉄道機械、製紙、肩帯、木材加工といったさまざまな産業が興り、23の企業が立地した[11]。グレートプレーンズの農家が生産した穀物は鉄道でミネアポリスに運ばれ、市内34ヶ所の製粉所で加工された。1905年頃、ミネアポリスにおける小麦粉の生産量は全米の10%に達していた[12]。全盛期においては、市内の製粉所の1つ、ウォッシュバーン製粉所は1日に食パン1,200万斤分の小麦粉を生産することができた[13]。
ミネアポリスにおける差別撤廃は1886年に始まっていた。この年、マーサ・リプリーは結婚している母親と未婚の母親の両方を収容する産科病院を設立した[14]。世界恐慌で国の運命が一転した後、1934年には、その年に起こったトラック運転手のゼネスト(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)を受けて、労働者の権利を認める法律が成立した[15]。生涯にわたり公民権運動を支えてきた当時の市長で、後に副大統領となったヒューバート・H・ハンフリーは、1946年に市の雇用機会均等条例の制定、およびマイノリティの側に立って仲裁にあたる人間関係委員会の設立に助力した[16]。ミネアポリスは早くから白人優位主義を排し、差別撤廃運動や公民権運動に参加し、1968年にアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)を生んだ地ともなった[17][18]。
1950年代から1960年代にかけては、都市再開発の一環としてダウンタウンの約4割、25ブロックにわたる200棟の建物を取り壊した。ゲートウェイ地区も取り壊された。そのときに取り壊された建物の中には、メトロポリタン・ビルディングなどの有名なものも多数あった。建物を守る策は失敗に終わったが、これを機に歴史的建造物保護への機運が高まった[19]。
ミネアポリスの歴史や経済成長とは切っても切り離せない、湖沼や小川、滝など水の多い地形は最終氷期に形成された。1万年ほど前にミネソタを覆っていた氷河が後退した際、地表は侵食されてミシシッピ河床やミネハハ河床ができ、近代のミネアポリスにとって重要な滝が形成された[20][21]。ミネアポリスとその周辺はほぼ平坦な地形で、その地下にはアーテシアン帯水層が広がっている。
ミネアポリスは北緯44度58分48秒西経93度15分51秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ミネアポリス市は総面積151.3km²(58.4mi²)である。そのうち142.2km²(54.9mi²)が陸地で9.1km²(3.5mi²)が水域である。総面積の6.01%が水域となっている。水域のうちミシシッピ川と3本の小川の水はミネアポリスの水道水源となっている[22]。 また、市内には12の湖、3つの大きな沼、および5ヶ所の湿地がある[23]。市の標高は264mである。
[編集] 気候
ミネアポリスの気候は中西部でも北のほうにあたる、アッパー・ミッドウェストと呼ばれる地域における典型的な気候である。乾燥して寒い冬と温暖で時折蒸し暑くなる夏に特徴付けられ、また気温の年較差が大きいという内陸性の気候である。冬は最高気温でも摂氏0度に満たない日が続き、夜は氷点下20度以下まで下がることも少なくない。北米の都市圏では、モントリオール、オタワ、エドモントン、カルガリー、ウィニペグなどと共に非常に寒冷な気候の都市である。夏は州北東部のダルースなどとは異なり気温がかなり上がり、日中には摂氏28度に達する。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfa)に属する。降水は雪、みぞれ、氷、雨、雷雨、霧などさまざまな形を取るが、年間降水量は690mm程度で、月間降水量で見� �と夏季は冬季の約4倍である。11月から3月にかけては月間20cm程度の降雪がある。ミネアポリスで観測された史上最高気温は摂氏42.2度(1936年7月)、史上最低気温は氷点下40.6度(1888年1月)である。最も降雪量が多かったのは1983年から1984年にかけての冬で、降雪量250cmを記録した[24]。ミネアポリス・セントポール都市圏の平均気温は摂氏7度ほどで、アメリカ合衆国本土の主要都市圏の中では最も低い。下表はミネアポリスにおける平均気温と降水量を月別にまとめたものである。
ミネアポリスは民主党のミネソタ支部、ミネソタ民主農民労働党(DFL)が非常に強い勢力を持っている。ミネアポリス市議会は市を13地区に分け、各地区の代表1人ずつ、計13人の議員からなっているが、2005年の市議会議員選挙で選出された議員はDFLがそのうちの12人を占め、残る1人は緑の党所属である。2007年現在の市長もDFL所属である。市長はあまり強力な権限を有してはいないが、警察署長などと直接アポイントをとることができるなど、いくらかの権限は有している。公園、図書館、課税、公営住宅に関しては準独立の委員会があり、予算・課税委員会の定める枠内で独自の予算を取っている[26][27][28][29]。
一方、市民も独自の、強い影響力を持つ地域政府を形成している。1990年代に地域再活性化プログラム(Neighborhood Revitalization Program、NRP)の下、各地域はその活動を調整しながら行っている[30]。ミネアポリスは1つ以上の地域からなるコミュニティに分かれている。いくつかのエリアは「ビジネス協会」というニックネームで知られている[31][32]。
環境の健全性および人間に与える影響の研究を基にしてアースデイの主催者たちが作成した「都市環境レポート」(Urban Environment Report)の2007年版では、ミネアポリスは全体で第9位、中規模の都市の中では第2位にランクされた[33]。
初期のミネアポリス市政府は腐敗した時期があり、1900年代中盤まで犯罪が多発していた。1950年以降、市の人口は減少し続け、ダウンタウンの大部分は都市再開発や高速道路建設のために失われた。その結果、人口減少が続いていた1990年代までのミネアポリスは「瀕死で平和な」環境にあった[34]。1990年代に入り、経済が回復してくると、人口の回復に伴って殺人件数も増えた。ミネアポリス市警察はニューヨーク市で実績を上げていたコンピュータシステムを導入し、犯罪率の高い地域に警官を派遣するようにした結果、人種プロファイリング(英語版)にあたるという批判を受けながらも、凶悪犯罪の発生率を低下させることに成功した。モーガン・クイットノー社の調査では、1994年の第1回調査で「全米の危険な都市」ワースト18位にランクされ、以後2001年まで毎年ワースト25圏内に入っていたが、2002年以降は入っていない[35]。地元政治家は犯罪の原因について討論し、警察官の増員、若者へのギャングや違法薬物以外の道の提供、貧困家庭への援助などの解決策を検討している。2007年、市は公共安全インフラへの投資を行い、警察官を40人新規採用し、新しい警察署長を迎えた[36][37]。
今日のミネアポリスの主産業は主に商業、金融、運輸、保健、製造業である。これらに加え、伝統の製粉をはじめ、出版、食品加工、グラフィック・アーツ、保険、さらにはハイテク産業も市の経済を支えている。市の製造業は主に金属、自動車部品、化学農業製品、電機、コンピュータ、精密医療機器、プラスチック、機械を生産している[39]。
ミネアポリスの市域内にはフォーチュン500に入る企業5社が本社を置いている。その5社とは大手ディスカウント小売店チェーンのターゲット、金融持ち株会社のU.S.バンコープ、電気・ガス会社のエクセル・エナジー、財務サービスのアメリプライズ・ファイナンシャル、生命保険・個人年金・投資信託のスライバント・ファイナンシャルである。ミネアポリスに本社を置くフォーチュン1000に入る企業には、ペプシアメリカズ(ペプシコーラの子会社)、バルスパー、ドナルドソンなどがある[40]。政府部門以外では、ミネアポリスの主な雇用主としてはターゲット、ウェルズ・ファーゴ、アメリプライズ、マーシャル・フィールズ、スター・トリビューン、U.S.バンコープ、エクセル・エナジー、IBM、パイパー・ジャフレイ、カナダ王立銀行、INGグループ、クエストが挙げられる[41]。また、ミネアポリス・セントポール都市圏内の郊外には、穀物メジャーのカーギルや大手電機小売のベスト・バイ、医療機器大手のメドトロニック社などが本社を置いている。
2005年時点では、Wi-Fiの普及率、交通ソリューション、医療試験、大学における研究・開発費用、労働者の学歴、エネルギーの節約の面では、ミネアポリスは全米平均を大きく上回っている。2005年、ポピュラー・サイエンス誌は、ミネアポリスを全米トップのハイテク都市に位置づけた[42]。2005年のキップリンジャー・パーソナル・ファイナンス誌の記事では、ミネアポリスは若いプロフェッショナルにとっての「クールな7都市」のうちの1つに数えられた[43]。同誌による2006年の投票では、ミネアポリス・セントポールは「住むのに賢い場所」の2位にランクされた[44]。
ミネアポリス・セントポール都市圏における都市圏総生産は1億4580万ドルに達し、ミネソタ州の州内総生産の63.8%を占める。人口1人あたりの都市圏総生産は全米の都市圏の中で第14位である。2000年の不景気から復調した2005年には、ミネアポリスの個人収入は全米平均の5%増には及ばなかったものの、3.8%増加した。同年第4四半期には、市の雇用はピーク時と同水準に戻った[45][46]。
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